結局、解はない ― 『翻訳夜話』(村上春樹・柴田元幸)


翻訳夜話 (文春新書)

翻訳夜話 (文春新書)


村上春樹柴田元幸が翻訳についての思い入れを語った本。
読み応えあり。
なかでも二編のアメリカ産短篇を村上・柴田で競訳しているのが見物。
その二編というのは "Collectors"(Raymond Carver)と "Auggie Wren's Christmas Story"(Paul Auster)。どちらも、話がクックッとすばやく展開していき、短篇のお手本といえるような作品。原文も収録されているので、読者は原文・村上訳・柴田訳を読めてオトク。オースターの"Ghost"にはまったく感応しなかった私も、この短篇は楽しめました。


翻訳者とのフォーラムでは村上・柴田とも、「自分を無にしてひたすら作品の声に耳をすます(というようなこと)」を強調しているが、それを実践して翻訳された作品のニュアンスは村上訳と柴田訳でずいぶん違うのが興味深い。


どうしてそのように違ってくるかというと、それはやはり、作品の捉え方が違うから。


たとえば、"Collectors"(Raymond Carver)については、話者 'I' の背景解釈が村上・柴田の両者で分かれ、村上は肉体労働者だろうというし、柴田は知的労働者だろうといっている。
これだけ解釈が異なれば、日本語にしたときの語彙や思考の流れに違いがあらわれるのも当然だろう。


また、もう一方の作品、"Auggie Wren's Christmas Story"(Paul Auster)では、両者の視点の定め方が異なっているということが、本文中でも指摘されていた。もう少し詳しくいうと、主要人物が二人(A、B)いるうちのどちらに視点に近づいて訳すかで、出来上がってくる日本語作品が結構違うというわけ。


結局、翻訳って一人の人間のフィルターを通すことになるから、そこであらたに原文から掘り起こされたものもあれば、抜け落ちてしまうものもでてくる。というのは今まで言われ尽くしてきていることだけど。結局、翻訳を読む楽しみと、原文を読む楽しみとは別物ということだ。


あと、二編とも、村上春樹の翻訳は、良くも悪くも村上節って感じで、村上春樹臭がたちこめている。好きな人にはたまらんのだろうなぁ。


それから、文中で言及されてた『優雅な生活が最高の復讐である (新潮文庫)』はタイトルからして面白そう。要チェック。