戦争シーンの再生産 ― "Grandma's tales" by Andrew Lam
Sudden Fiction (Continued): 60 New Short-Short Stories (Religion)
- 作者: Robert Shapard,James Thomas
- 出版社/メーカー: W W Norton & Co Inc
- 発売日: 1996/06/01
- メディア: ペーパーバック
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これも読んで損はない短篇。
短い中にもいろいろあって、小説空間を満喫できます。
始まり方がまずショッキング。といってもグロテスクなのではなく「え、えーっ??」って言ってる間に、首根っこ引っつかまれていつのまにか小説に引き込まれているという感じ。
あらすじはこんな感じ↓。ベトナム戦争後、ボートピープルとしてアメリカ移民一家に起こった出来事が話の中心で、語り手は姉弟の弟のほう。
- 両親が旅行中、家にいるのが姉弟(20前後?)とおばあちゃんだけとなった夕方、おばあちゃんがいきなり死んだ
- 両親はいないし、子供たちにも夜には外出予定があるし、ということで子供たちはおばあちゃんを冷凍庫で凍らせることにした
- 語り手(弟の方)はバイセクシャルでボーイフレンドがいる。そのことについても理解のあるおばあちゃんだった
- おばあちゃんを凍らせてから姉はパーティに、弟はデートに出かける
- 弟はボーイフレンドと一緒に帰宅。するとおばあちゃんが生き返っていた
- おばあちゃん、弟、ボーイフレンドという三人が姉のカクテルパーティにでかけていった
- そのパーティでおばあちゃんはベトナムに関するいろいろな苦労話を披露。喝采を浴びる
- 話終わったおばあちゃんは、パーティで出会った男性とともに第二の人生をふみだす
- 旅行から帰ってきた両親によって葬式がとりおこなわれる、が、弟は嘆かない。おばあちゃんはもうそこにはいないと知っているから。
人が死んだところからはじまるってのは、結構よくあるはなし。
「死」は一応、非日常ってことになってるから、まぁ、フィクションには
よく使われる設定。
この作品では、人が死ぬというだけではなく、死体を凍らせてパーティやら
デートに出かけちゃうってのがおもしろい。
友達にも紹介したら、評判がよかった。で、この友達と議論したこと:
私:おばあちゃんはアメリカ人がベトナム人を撃ち殺すとこを何本もの映画でみてきた(からそんな映像おばあちゃんにとっては何でもない)ってあるけど、ベトナム戦争時代、おばあちゃんはそういうの実際にみてきたわけだから、「映画で見てきた」ってやるよりも「実際にみてきた」ってほうが、話としてはインパクトがあるんじゃない?
友:馬鹿ねぇ。わざわざ「映画でみてきた」ってするには理由があるの。「映像の再生産」ってことを考えなさいよ。「実際にみてきた」って言った場合は、すでに過去のことでしょ。「映画でみてきた」ってすると、今までも、そしてこれからも、その映画が再生されるたびにアメリカ人はベトナム人を撃ち殺すってことになるの。そうやって、アメリカ人がいとも簡単にベトナム人を撃ち殺す様子から読み取れる差別意識やなんかが、未来永劫、再生産されていくのよ。
なるほどね〜、と納得。
ありますか、ありませんか、これは質問です。
2chの文学板をみて遊んでいると、あるスレッドでHamlet名文句がおもしろく訳されていた。
「生きるか、死ぬか、それが問題だ」 ― "To be or not to be, this is the problem" ― 「ありますか、ありませんか、これは質問です」
瞬時に、あの重々しい場面で「ありますか、ありませんか、これが質問です」と言っているハムレットの姿が浮かび、大笑いしてしまった。
以前、カナダのオンタリオ州の Stratford 演劇祭(http://www.stratford-festival.on.ca/)で、ハムレットを観てきた。シェイクスピアの出身地が Stratford-upon-Avon だということで、その名にちなんでシェイクスピア作品が上演されていたというわけ。私は英語難しい+時差ぼけでほとんど寝てたけど。
それも思い出したことだし、ハムレット、もいっかい読み直してみようかな・・・
あれは悲喜劇だと思う。
こういっては冷たいんだけど、生真面目な人間が思いつめてまっしぐらにつっぱしっていく様子が、傍からみてると笑えるというか…。真剣すぎる人間は、ときに滑稽で、だからこそ、いとおしい。
親切?いじわる?手紙がもっていかれてしまった - "Collectors"(Raymond Carver)
『翻訳夜話 (文春新書)』所収の短篇。私は柴田訳の方が淡々としていて好きです。
短篇として流れがいいよなぁと、ほれぼれ。
無駄な要素が一つもない。タイトルどおり、「集める」というのがキー。
- 失業中の男、採用通知が届くのをひたすら待っている
- そこへ訪問者。しかしそれは郵便配達夫ではなく、セールスマン
- セールスマンは男の妻を訪ねてきていた
- 別居中だと答える男。訪問をうっとおしく思う
- セールスマンは掃除機のデモンストレーションで掃除する。このとき、これまでその家にたまってきたいろいろがゴミとして集められていく
- そこへ手紙が配達される。セールスマンはそれを男に渡すかわりに自分のポケットにいれてしまう。「奥さんからだ、不要だろ」と言って。
- 心が軟化してコーヒーをすすめる男。セールスマンはそれを断る。
- セールスマンは男に掃除機をすすめる。
- 「もう引っ越すし、邪魔になるだけだからいらない」と男が断る
- 結局、その手紙が本当に奥さんからなのか、そうだったとして内容は何なのかは分からないまま話が終わる
描写も簡素ながら的を得ていて、太ったセールスマンが、薄汚い男一人暮らしの家で、ゼーゼーいいながら掃除機をかけまくるところがイメージできる。
結局、解はない ― 『翻訳夜話』(村上春樹・柴田元幸)
- 作者: 村上春樹,柴田元幸
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2000/10/20
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村上春樹・柴田元幸が翻訳についての思い入れを語った本。
読み応えあり。
なかでも二編のアメリカ産短篇を村上・柴田で競訳しているのが見物。
その二編というのは "Collectors"(Raymond Carver)と "Auggie Wren's Christmas Story"(Paul Auster)。どちらも、話がクックッとすばやく展開していき、短篇のお手本といえるような作品。原文も収録されているので、読者は原文・村上訳・柴田訳を読めてオトク。オースターの"Ghost"にはまったく感応しなかった私も、この短篇は楽しめました。
翻訳者とのフォーラムでは村上・柴田とも、「自分を無にしてひたすら作品の声に耳をすます(というようなこと)」を強調しているが、それを実践して翻訳された作品のニュアンスは村上訳と柴田訳でずいぶん違うのが興味深い。
どうしてそのように違ってくるかというと、それはやはり、作品の捉え方が違うから。
たとえば、"Collectors"(Raymond Carver)については、話者 'I' の背景解釈が村上・柴田の両者で分かれ、村上は肉体労働者だろうというし、柴田は知的労働者だろうといっている。
これだけ解釈が異なれば、日本語にしたときの語彙や思考の流れに違いがあらわれるのも当然だろう。
また、もう一方の作品、"Auggie Wren's Christmas Story"(Paul Auster)では、両者の視点の定め方が異なっているということが、本文中でも指摘されていた。もう少し詳しくいうと、主要人物が二人(A、B)いるうちのどちらに視点に近づいて訳すかで、出来上がってくる日本語作品が結構違うというわけ。
結局、翻訳って一人の人間のフィルターを通すことになるから、そこであらたに原文から掘り起こされたものもあれば、抜け落ちてしまうものもでてくる。というのは今まで言われ尽くしてきていることだけど。結局、翻訳を読む楽しみと、原文を読む楽しみとは別物ということだ。
あと、二編とも、村上春樹の翻訳は、良くも悪くも村上節って感じで、村上春樹臭がたちこめている。好きな人にはたまらんのだろうなぁ。
それから、文中で言及されてた『優雅な生活が最高の復讐である (新潮文庫)』はタイトルからして面白そう。要チェック。