[感想] 『吾輩は猫である』 夏目漱石 - 笑おう!

なぜか「猫」には手がでないままここまできて、人から
「マジ笑えるから」ってススメられたのがきっかけでようやく
重い腰をあげました。


で、どうだったか。


読みながら乗ってた電車の中で笑いのツボにはまってしまい、
隣のおじさんに「大丈夫?」って声をかけられる始末。えぇ。


序盤はちっともおかしいと思わなかったんだよなー。それが
折り返し地点くらいに、猫がぶつ毛皮講釈「猫だって
熱くなれば毛皮をちょっと洗い張りにするか質にいれるかしたい」
あたりから加速度的におもしろくなってきて、とうとう、
空からふってきた亀の子のせいでギリシアの哲人アイスキュロス
禿げがめちゃめちゃに砕けるくだりでとうとう悶絶。


だけど考えてみたら、これが書かれたのって、「夏目狂せり」の
うわさが流れたというロンドン留学の後なんだよね。
というか、これは漱石の小説第一作だし、漱石は帰国後やっと
小説書きはじめるんだし。で、その帰国後、神経衰弱は
いっそう悪くなったというから、よくこんなに可笑しいのを
書く気になれたなっていうのが素朴な感想。


あ、でもこういう可能性もあるな。


つまり、諧謔の精神があったからこそ、漱石の知性は崩壊を免れた、という可能性。
実際、窮地をユーモアでかわすという場面が「猫」にもある。
漱石が「猫」を断続的に発表している間に、やはり猫が主人公の
小説『牝猫ムルの人生観』(ホフマン)が日本で初めて紹介された。
で、紹介者(藤代素人)はそのときは漱石の「猫」をからかうような書き方を
していたという。*1


これを受けて、漱石は「猫」にこういわせている。

先だってカーテル、ムルという見ず知らずの同族が
突然大気炎を揚げたので、ちょとびっくりした。よくよく聞いてみたら、
実は百年前に死んだのが、ふとした好奇心からわざと幽霊になって
吾輩を驚かせるために、
遠い冥土から出張したのだそうだ。


こういうかわしかたって余裕を感じさせてスマートだし、なにより
猫のせりふがおもしろい。


さて、おかしさって一体なんだろう。
まずそれは強い精神が享受するもの。
心が弱っているときには笑えもしない、という意味で。
またそれは、幕引きの時に寂寥感を残すものでもあり。

「猫」小説の終わり、クシャミの家に集まっていた変人奇人が
次々と帰途につくのをみて猫はいう。

のんきと見える人々も、心の底をたたいてみると
どこか悲しい音がする。


そして漱石後記の作品では、個々人の「悲しい音」の方に
焦点があてられていくことになるが、「猫」はまだ
宴の途中の作品。読んでゲラゲラ笑っていれば、
漱石先生も草葉の陰で満足してくれるんじゃないでしょうか。


ところで私、『吾輩は蚤である』っていう小説も読んでみた。
だって、古本屋でたまたま手にとったら、
漱石はロンドン留学中、ここからヒントを得た」的な
惹句があったから、これは読まないわけにいかんでしょってことで。


で、読んでみたら、徹頭徹尾エロ小説でした。愛欲におぼれていく
貴族のお嬢さんの性生活を蚤が観察・報告する、という形式の。
作者不詳ということになってたけど不出来なものだったなー。
いかにも男の妄想という感じで。女の体はそんなふうには
できていませんよ、とツッコミをいれたくなる箇所がいくつも
ありました。
おなじイギリスのエロ小説でも、『ファニーヒル』なんかは
女も共感できたけど。

ファニー・ヒル―一娼婦の手記 (ちくま文庫)

ファニー・ヒル―一娼婦の手記 (ちくま文庫)

*1: 旺文社文庫版の注による。「からかうような」といっても、 どんなからかい方なのかは書いていない。おもしろがってる?それとも揶揄?