[感想] 『セバスチャン』 松浦理英子 - リアルなフィクションについて考える
内容についてはひとまず措くとして。
「小説のリアリティってなんだろう」という問いをあらためて喚起する
小説だった。貴重な読書体験でした。というのも私は小説を読み始めると
「書かれていること」に没頭するタイプなので。今回のように
「書かれ方」に意識を向けることは稀なことです。
主人公の麻希子は同性の友達との奇妙な主従関係に魅了されている。
そして麻希子の周囲に集う人もみな性的に倒錯している*1。
だってそういえばこの小説、いわゆる普通の(=大衆的な?)*2、
としか形容できないようなセックス、
というのは、男女間で、ムチとか使わないでってことだけど、
そういうセックスを楽しむような人、誰一人としてでてきやしない。
そういう世界は実は私自身からは縁遠い世界。だけどここがおもしろいんだけど、
だからといってこの小説で展開される世界のリアリティが欠けてみえるわけじゃない。
わたしはそのような世界をしらない、だけどわたしの知らないところで確かに
そのような世界が存在しているんだろう。そう素直に思える。
それはこの小説がフィクションとして成功しているから。
つまり、作家の頭のなかに構築された世界を読者と共有するのに
成功しているから。
そこで、小説のリアリティって何だろう?って考える。
ちょっと遠回りになるが、この小説読んでるときの素朴な感想として、
「誰もこんな言葉遣いしないんじゃないの?」ってのがあった。
「〜だわよ」「どうなんだい?」「〜だこと」と
まるで古い翻訳小説のようなんですが。もしくは出来の悪い吹き替え。
この小説、確かに翻訳小説と似ている。
- 会話が不自然(人工的すぎる)
- それでもリアルと感じる(作品によって)
こういうことだ。例えば、『罪と罰』のソーニャが始終
「〜だわ」であっても、『罪と罰』の世界は『罪と罰』の世界として
ありつづけるだろう。
こういった会話の不備(と私には思われる)は
小説のリアリティにはさほどの影響を与えない。
では小説のリアリティは何によって支えられているのか。
で、それは自分が生きている世界との本質的な相似ではないかと思い当たる。
例えば、麻希子が女友達に隷属するような関係。私は自分では
そのような関係は経験したことがないけど、相手が女友達ではなく
恋人だったらそういうこともあるかもしれないとは思う。
麻希子と女友達との関係・私と恋人との関係は相似形にある。
ところで、後回しになっちゃった内容について。
私は最後ですーっと冷めた。
男の音楽が録音されたレコードをめぐってひとつのエピソードがある。
それは物語の終結へのスプリングボードとなる大切なエピソードなんですが。
まずそのエピソードがリアルじゃない。*3
だからそれまでうなずきながら読み進めてきていたのが
いきなり振り落とされそうになった。
それでも読み進めていくと、男との決裂シーンとなる。
ここでは、麻希子の硬直ぶりに冷めた。
この人は変化しない。新しい状況を受け入れることはない。
そうすると書かれていない今後の世界でこの人はどうなるんだろうという
興味が急速にしぼんだ。
そして、それまでいくらかはあった主人公への共感の
灯火がすっと消えてしまった。
終盤が性急すぎるのかもしれない。
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