『十二夜』(俳優座)− 楽しかった〜!


これ見るまで忘れてたけど、だいたい私は、
ルネッサンスものが好きなんだった。
音楽でもジョン・ダウランドリュート音楽とか好きだし、
あとルネッサンス時代の服も好きで、あんなのなら
一回着てみたいなぁと思っている。


あんなのとはどんなのかというと、はりのないてろてろした
生地(絹なのか)で、たっぷりドレープがとってあって
ソデがふくらんだやつ...こんなんじゃ伝わりっこないな。
そして、頭に鬼の角みたいなのを二本つけて、その上に
布をかける、と。これでますます分からんですな。


05/02/07、俳優座の『十二夜』を観にに行ってきた。
この日会社を休んでこともあって、「会社の人に会いませんように」と
祈っていたら会わなかった。でも一回、同じような状況で
部長にばったり会ったことがある。あれはおととしの冬の
落語会だったなぁ・・・


この『十二夜』、シェイクスピアのシナリオは読んだことないんだけど、
安定感があってよかった。安定感があるというのは、
言い換えると、劇の中で芽生えたことは、
すべて劇の中で解決される、という感じ。劇の閉じた世界で
ものごとが完結しているので、観ている人は
安心してフィクションの世界に身を任せていられる。


もうちょっと具体的にいうと、
双子が生き別れたところから再会するところまでという劇のなかで、
双子妹→伯爵(だったか?双子妹が男装して仕える相手)の恋心とか、
伯爵の想い人で服喪中の王女(だっけ?)→男装した双子妹への恋心とか、
あと、執事→王女の気持ちとか、すべて宙吊りで放置されずに、
すべて決着がついて劇が終わるということ。


こういうなかで、恋する人はその深刻さで愛すべき滑稽さをだしているし、
その恋をからかう酔っ払い道化(でもないんだけど)のいたずらも
おかしいし、とにかく、笑えた。
特に、執事の妄想―王女もきっと自分のことを好きに違いないという妄想の
場面は、落語でいうなら、正に『湯屋番』の若旦那のようで、
ほほえましい。本人が真剣なだけに。深刻な人のおかしさというのを
堪能しました。日常生活では、深刻な人つかまえて笑うわけには
いかないからね。


生演奏の楽隊がいたのもよくて、舞台には「人生を楽しもう!」という
ルネサンス時代以来のエネルギーが満ち溢れていて、
あぁ、シェイクスピア時代の喜劇の上演って、
こんなだったのかなぁと思いました。
もちろん、現代に再演されるときに、シェイクスピア時代のように
演出しなきゃなんない、なんて決まりはないのですが。


楽しみました。
安心感のためだと思うけど、はからずも思い出したのは、
小さいときに親に「お母さんと一緒」か何かの企画の
『浦島太郎』ちっくな子供向け演劇に連れて行って
もらった時のこと。
思い出した理由はそれとも安心感ではなくて、
ルネッサンス衣装で男性がタイツはいてたから、
それで、竜宮城劇の亀とかの役の人もタイツはいてたから、
タイツつながりかも。


はなしを『十二夜』に戻して、ひとつ考えるヒントを持ち帰ったとすれば、
安定したフィクションと不安定なフィクションについてということかな。


「安定」=「フィクションとして閉じている状態」と考えると、
そういうシナリオでは、フィクションをフィクションとして楽しめる。
だけど、フィクションとしてうまいものが、実際に現実の
生活に干渉するかというと、干渉しない。閉じてるから。


むむむ。この文脈だと、まるで「作品は現実に影響を与えることが
作品であるための前提条件」みたいに聞こえるな。
はたしてそうなのかな?いったん考えるのを止めて前にすすむ。


一方「不安定」=「開いたフィクション状態」と考えると、
フィクションとして閉じられないという状態のほうが、
現実の似姿としては適切。だから似姿である作品から影響を
受けて、人は現実を生きていく。そういった作用がある
作品の方が力強いのか。 これはだけど、結局「芸術は
有益でなければならない」という実用主義の考え方なのかなぁ。


ところで、またちょっと脱線だが、リアリティ獲得を目指して
作られた世界が、リアルな世界に影響を及ぼすという関係性は、
面白い。似姿がオリジナルに影響を及ぼすのだから。


いずれにせよ、シナリオや小説のフィクションとしての
「安定」と「不安定」についてはまだまだ考える余地ありです。