『漱石の孫』 夏目房之介

漱石の孫

漱石の孫


漱石の『硝子戸の中』はこの本のなかでも何度かふれられていたが
「随筆」という言葉がしっくりくる『硝子戸〜』とはちがい、この
漱石の孫』にはエッセイというのがよく似合う。そのくらい
肩の力をぬいたまま楽しめる。


タイトルから分かるように、著者は漱石の孫である。ただし
これは身内の暴露話ではない。なにしろ、漱石の死と著者の誕生の
間には34年もの年月があるのだから。かわりにこの本で
焦点があてられているのは、著者が「漱石の孫」ということからくる
プレッシャーをいかにかわしつつ自分というものを固めてきたかという経緯である。
ところどころで挿入されるマンガ論・文化論がこの著者らしく、
また、身内話でないぶん、嫌味がなくてよい。


会ったことがないとはいえ、祖父の名は学校の教室で、仕事の現場で
著者につきまとう。漱石の名が夏目金之助であり、
著者の名が夏目房之介であるとくると、私だって「あれ?もしかして?」と
聞いてしまうかもしれない。それが著者にとっては重荷だったとのことだ。


敵を倒すにはまず敵を知れ --- 祖父の名の重圧から逃れるためには、
まず、祖父を知ることだ。そして、祖父を理解することは、
自分自身を理解することにもつながる。著者は漱石のことを
調べる。そして調べたその先には、自分自身と出会いがあったのだろうと思う。


父や叔父の話から浮かび上がってくるのは、神経質で子供にも手をあげる
「恐ろしい父親」としての漱石だった。そしてその性質は確かに
自分にも受け継がれてしまっている。。。


では漱石にあって何がきっかけでそのような性格が形成されたのか。


著者は調査の手をここではたと止める。そしてこの停止のうらには
良識的な判断があった。漱石と生活をともにしたことのない者として、
漱石の無意識に立ち入ることを潔しとしない著者は、
このような意味のことを言っている。
《長期にわたってそばで観察できていない限り、人格をトラウマや
コンプレックスといった無意識から解説しようとするのは危険な試みである。
なぜなら『無意識』に還元されるからこそ、本人の意識とは無関係に
常にこういうレトリックが成立するものだから。『あなたは気づいて
いないかもしれないですが、実はこういうことだったんですよ。』
そしてこの因果関係は立証しようのないものだから。》


いわれてみればそのとおりである。そしていわれてみて気づいた。
『あなたは気づいていないかもしれないですが、実は〜』という
レトリックが多用される場がある。
「占い」だ。


自分が知りえないものである「無意識」を根拠に「こうだ」と
言われるのだから、本人としては反論のしようがない。
あとは、信じる・信じないの選択があるのみである。
たしかにそれでは「批評」「評論」になりえない。
とはいえ、占いは占いでおもしろいけど。


ところで漱石(というイメージ)との苦闘が書かれている
この本にはもうひとつ、別の顔がある。それはロンドン観光案内という
面だ。漱石が通った大英図書館やキューガーデンなどが
時代背景もふくめて紹介されている。大英博物館の章では
メトロポリタンやルーブル、オルセーといった美術館の
運営方針にも触れられ、そこでの著者のコメントが秀逸。
《写生や写真撮影まで許可されている美術館もあるのに、
日本の美術館はいかにも官僚然としていてまったく
融通がきかない。》(だいたいこんなかんじのこと)


本当にそのとおり。税金運営のくせに、昼間働いている
多くの人がいけないような開館時間って一体なんなのよって
私も常々思ってました。でも確かに、巨額の税金おさめてる
人のほうがかえって、時間の都合、つけられるんだろうけどさ。