言文一致運動って何だったの?(調べた経緯)


座談会明治・大正文学史 (1) (岩波現代文庫―文芸)

座談会明治・大正文学史 (1) (岩波現代文庫―文芸)


「言文一致運動」が何だった知りたくて、↑本のうちの「『新体詩抄』から『浮雲』まで」を読んでみたが、いまいち分かんなかった。

知りたかったこと

  1. 言文一致運動ってどういう動機でうまれたのか
  2. 言文一致以前/以後で、読者層はどういう人たちからどういう人たちに変わったのか
  3. 具体的にはどのようにすすめられ、日本の文学にどのような影響をおよぼしたのか

今回分かったこと

  • 言文一致運動により万人に読める文学が目指された

・・・これは言文一致運動の動機になるかもしれないけど、これだけじゃなんか教科書ちっくで不満。どういう状況に閉塞感を感じて生まれたのか、そしてそもそも閉塞感がスタートだったのか、ということを知りたい。

  • 山田美妙(1868-1910)が中心的人物だった。

(追記:↑と、『明治・大正文学史』にはあったけど、Webでみてると、山田美妙と二葉亭四迷の二人が立役者としてあがっている)

  • 当時、書くといえば文語。口語で書くというスキルを持ち合わせている人なんていなかった

疑問のまま残ったこと、または新しく生まれた疑問

  • 当時、「口語」にあわせるっていっても、どういう口語だったんだろう?もう「標準語」という概念があった時代なんだろうか。

・・・これについては、今度こまつ座の『國語元年』も観にいくことだし、調べてみよう。

二葉亭四迷のことば

「山田美妙 言文一致」でググると、一番上にヒットするのが、山田微妙ではなく、二葉亭四迷の言葉。あぁ、↑の本よりよほど役に立つ。


以下、日本ペンクラブのサイト(http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/essay/futabateishimei02.html)より引用。

ふたばてい しめい 小説家 1864.2.3(又は、2.18) - 1909.5.10  近代文学史劈頭を言文一致の名作「浮雲」で飾った。またロシア小説の清新・苦心の翻訳で後進を刺激した。 掲載作は、共に明治三十九年(1906)、「文章世界」五月号「女学世界」十月号に初出。


↓おもしろい。文章の感じが、漱石の『僕の昔』っぽい。ふたつとも語り聞かせ調&江戸言葉だからか。

余が言文一致の由来

 

 言文一致に就いての意見、と、そんな大した研究はまだしてないから、寧(むし)ろ一つ懺悔話(ざんげばなし)をしよう。それは、自分が初めて言文一致を書いた由来――も凄まじいが、つまり、文章が書けないから始まつたといふ一伍一什(いちぶしじゆう)の顛末(てんまつ)さ。

 もう何年ばかりになるか知らん、余程前のことだ。何か一つ書いて見たいとは思つたが、元来の文章下手で皆目方角が分らぬ。そこで、坪内(=逍遙)先生の許(もと)へ行つて、何(ど)うしたらよからうと話して見ると、君は圓朝の落語を知つてゐよう、あの圓朝の落語通りに書いて見たら何うかといふ

 で、抑(あふ)せの儘にやつて見た。所が自分は東京者であるからいふ迄もなく東京弁だ。即ち東京弁の作物が一つ出来た訳だ。早速、先生の許へ持つて行くと、篤(とく)と目を通して居られたが、忽ち礑(はた)と膝を打つて、これでいゝ、その儘でいゝ、生(なま)じつか直したりなんぞせぬ方がいゝ、とかう仰有(おつしや)る。

 自分は少し気味が悪かつたが、いゝと云ふのを怒る訳にも行かず、と云ふものゝ、内心少しは嬉しくもあつたさ。それは兎に角、圓朝ばりであるから無論言文一致体にはなつてゐるが、茲(こゝ)にまだ問題がある。それは「私が……でム(ござ)います」調にしたものか、それとも、「俺はいやだ」調で行つたものかと云ふことだ。坪内先生は敬語のない方がいゝと云ふお説である。自分は不服の点もないではなかつたが、直して貰はうとまで思つてゐる先生の仰有る事ではあり、先づ兎も角もと、敬語なしでやつて見た。これが自分の言文一致を書き始めた抑(そもそ)もである。

 暫くすると、山田美妙君の言文一致が発表された。見ると、「私は……です」の敬語調で、自分とは別派である。即ち自分は「だ」主義、山田君は「です」主義だ。後で聞いて見ると、山田君は始め敬語なしの「だ」調を試みて見たが、どうも旨く行かぬと云ふので「です」調に定めたといふ。自分は始め、「です」調でやらうかと思つて、遂に「だ」調にした。即ち行き方が全然反対であつたのだ。

 けれども、自分には元来文章の素養がないから、動(やゝ)もすれば俗になる、突拍子もねえことを云やあがる的になる坪内先生は、も少し上品にしなくちやいけぬといふ。徳富さんは(其の頃『国民之友』に書いたことがあつたから)文章にした方がよいと云ふけれども、自分は両先輩の説に不服であつた、と云ふのは、自分の規則が、国民語の資格を得てゐない漢語は使はない、例へば、行儀作法といふ語は、もとは漢語であつたらうが、今は日本語だ、これはいゝ。併し挙止閑雅といふ語は、まだ日本語の洗礼を受けてゐないから、これはいけない。磊落(らいらく)といふ語も、さつぱりしたといふ意味ならば、日本語だが、石が転つてゐるといふ意味ならば日本語ではない。日本語にならぬ漢語は、すべて使はないといふのが自分の規則であつた日本語でも、侍(はべ)る的のものは已(すで)に一生涯の役目を終つたものであるから使はないどこまでも今の言葉を使つて、自然の発達に任せ、やがて花の咲き、実の結ぶのを待つとする。支那文や和文を強ひてこね合せようとするのは無駄である、人間の私意でどうなるもんかといふ考であつたから、さあ馬鹿な苦しみをやつた。

 成語、熟語、凡(すべ)て取らない。僅に参考にしたものは、式亭三馬の作中にある所謂(いはゆる)深川言葉といふ奴だ。「べらぼうめ、南瓜畑(かぼちやばたけ)に落(おつ)こちた凧ぢやあるめえし、乙(をつ)うひつからんだことを云ひなさんな」とか、「井戸の釣瓶ぢやあるめえし、上げたり下げたりして貰ふめえぜえ」とか、「紙幟(のぼり)の鍾馗(しようき)といふもめツけへした中揚底で折(おり)がわりい」とか、乃至(ないし)は「腹は北山しぐれ」の、「何で有馬の人形筆」のといつた類で、いかにも下品であるが、併しポエチカルだ。俗語の精神は茲に存するのだと信じたので、これだけは多少便りにしたが、外には何にもない。尤も西洋の文法を取りこまうといふ気はあつたのだが、それは言葉の使ひざまとは違ふ。

 当時、坪内先生は少し美文素を取り込めといはれたが、自分はそれが嫌ひであつた否寧(いなむし)ろ美文素の入つて来るのを排斥しようと力(つと)めたといつた方が適切かも知れぬ。そして自分は、有り触れた言葉をエラボレートしようとかゝつたのだが、併しこれは遂(と)う遂う不成功に終つた。恐らく誰がやつても不成功に終るであらうと思ふ、中々困難だからね。自分はかうして詰らぬ無駄骨を折つたものだが……。

 思へばそれも或る時期以前のことだ。今かい、今はね、坪内先生の主義に降参して、和文にも漢文にも留学中だよ。  

(「文章世界」明治三十九年五月)




式亭三馬はいままでも読みたいと思いながら結局読まずじまいできてるな。とりあえず本だけ買っとくか。それからいままで気にもとめなかった『浮雲』読んでみたくなった。


参考リンク 悲しいことに、本よりWebの方が役立ってしまう

http://user.ecc.u-tokyo.ac.jp/~g430100/report.htm ・・・ 学生さんのレポート(かな?)。「言文一致運動とは」「言文一致運動の目的」「言文一致運動の意義」について書かれている。また、式亭三馬など江戸戯作者による俗語文学は言文一致運動とは目指す方向が異なる、との指摘も。